その日その日を生き抜けばいいのであれば

2,3カ月に一度くらい、

車椅子でコンビニに行くついでに近所を見て回る。


ここ数年で目立ち始めたのは

ベランダに生活感のない家が散見される。


エアコンの室外機がなかったり、

カーテンが取り外されていて室内まで見える。


家具も片付けられていて

もちろん、住人の姿は見当たらない。


この地域は千里ニュータウンのはずれで1980年前後に開発された。


当時は子育て真っ最中の団塊の世代が入居していき、

結構賑わっていた。


だが、40年が経ち団塊ジュニアは巣立っていき、

高齢者だけが残った。


そしてその高齢者もいなくなり始めている。


後に賃貸でもいいから住んでくれればまだよいのだけど、

どうも望み薄のようだ。


千里ニュータウンの先に開発された地域は

公団跡地は既に再開発事業が始まっている。


中には墓地だった場所も含まれる。


かつてその地で生きていた人の痕跡なんてものは

微塵も残っていない。


持続可能な社会というものはこういうものなのか?


こうも何も残らないものだと思う。


歴史上の人物もたびたび人生を夢に例えている。


ただ、これまで人生は何かしらを残さなくてはいけない。


そんな強迫観念のようなものを感じて生きてきた。


でもそうでもないのなら、

その日その日を生き抜けばいいのであれば

なんとかなるかもしれない。


そう思えるようになった。



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